相対主義の極北 その3(終わり)

後半、書かれてることが私の普段に近づいてきたので読みやすくなった。たいていのものは二項対立に併置できないしが、説明において併置されることがある。それは「違うもの」であり「同じものではないもの」以上の意味を勝手に付加することに気をつけなければならない。コインの裏表ではないのだから。しかし、そういう枠組みで考える人にとっては、そのように見えるのかもしれない。実際にそう思っているかどうかは、その人の行動からしか推測する程度しか術はないのだが… これは自分自身にとっても言える。
「私たち」という議論には些か食傷気味になった。
今考えたらその2で書いた写像の件は、ちょっと難癖っぽかったかもな。
この本のおかげで、ヘルダー、ハーマンを読んでみようという気になった


最後に、
私の意識と私の身体には断絶が存在しているように思う。私は私の身体について全てを知らないし、私は私の身体についての可能性も知らない。そして、読んでいて身体のない議論のようにも思えた。